前回、会社の BGM 用に、低いところを落とした音源を用意したいと書きました。
今日は、その「低いところを落とす」という仕事の話です。
あわせて、私が決めている二つのこと——リミッターは使わない。デノイズは使わない。——についても書いておきます。

まず、何を落とすのか
録ってきたデータを開くと、低いところに、たくさんのものが入っています。
- 空調の唸り
- 足音のゴロゴロ
- 風が、ごくわずかにマイクを撫でた音
- 遠くの車
- 自分の体が動いた音
- 遠く遠くのおばさんたちの声
山のてっぺんで、風の当たらない場所を探して仕掛けても、低いところは、なかなか静かになりません。 街から遠く離れていても、地面と空気は、いつも低く鳴っています。
そして——小鳥の声にとって、そこは、もともと要らない場所なのです。
一般的な小鳥の声は 2000Hz 以上と言われています。低い声で知られるカラスやハトでも、300Hz より上です。
ですから、そこから下を落としても、小鳥は一羽も減りません。
減るのは、重さだけです。
300Hz未満、完全にすっかりきれいにクリアにします。音域のみを削除することができるシステムがあるのです。
落とすと、どうなるか
やってみると、音が軽くなります。
澄む、という言い方がいちばん近いかもしれません。
濁りが消えて、小鳥の声と、静けさだけが残る。
そして、これが会社で使うときに効いてきます。低い音は、小さな音量で流しても、体に重くのしかかってくるのです。空調の唸りが一日中鳴っている部屋が、なんとなく疲れるのと同じことです。
それを取り除いておけば、一日中流していても、うるさくならない。
ここからが、決めごとの話です
音を整える道具には、いろいろなものがあります。私が使わないと決めているものが、二つあります。
その一:リミッターは使わない
リミッターというのは、大きい音が出たときに、頭を押さえつける道具です。
押さえたぶん、全体を持ち上げられます。結果として、音がそろって、大きく、聴きやすくなる。 世の中の音楽のほとんどは、これを通っています。便利な道具です。
けれど、私はこれを使いません。
理由は、はっきりしています。
第5話で書いた、三田洞の朝の録音を思い出してください。
そこに録れていたのは、まず——深夜の、完全な静寂でした。 あるタイミングで、遠くのほうで小鳥がささやき始めているのが感じられました。 それから、徐々に。あちらこちら、方々から、小鳥たちが囀りはじめるのです。
この「静寂」と「だんだん」が、あの録音の中身です。
リミッターを通すと、小さい音が持ち上がり、大きい音が押さえられます。 つまり、静寂が静寂でなくなり、朝の会の盛り上がりが平らになる。
聴きやすくはなります。でも、それはもう、あの朝ではありません。
山で起きたことと、家で鳴る音が、違ってしまう。 それが、いちばん嫌なのです。
その二:デノイズは使わない
デノイズは、雑音を取り除く道具です。ノイズだけを見分けて、消してくれます。
これも、とても便利です。そして、とても危ういです。
デノイズは、「これはノイズ、これは小鳥」と完全に見分けているわけではありません。 似たものを、まとめて削っています。
ですから、かけると——
- 小鳥の声の細かいところが、一緒に削られます
- 声の消え際、余韻の最後の部分が、ぷつりと無くなります
- 遠くで鳴いている、小さな一羽が、ノイズとして消えます
遠くの一羽が消えるのは、いちばん困ります。 定点録音の値打ちは、まさにそこにあるからです。近くの一羽ではなく、山のあちらこちらで重なっている声を録りたくて、山に登っているのです。
ですから、デノイズは使いません。
では、雑音が入っていたらどうするか。答えは一つです。
その録音は、使いません。
また天気を見て、また風速を見て、また木箱を担いで、山に登ります。
ダメな日の録音は、はっきり言ってすべてダメな録音。その日はまったく魅力のない録音だけなので削除ですね。
雨が降ってしまった日の録音もダメですね。そもそも小鳥は鳴かないですし、雨音の雑音がとても大きくでうるさいですから。だけど、そんななかに、ちょうどよい具合の雨の日がありました。
普通の雨はザーザー、何も感じません。しかし奇跡的にその日の雨はとても風情のある魅力的な雨音が録れたことがありました。
つまり、勝負は山で決まっている
二つとも「使わない」と決めると、あとから直せることは、ほとんど無くなります。
できるのは、低いところを落とすことだけ。
足しません。作りません。落とすだけです。
だから、第3話の木箱も、第4話の十分間も、第5話の風の流れ道も、全部そこに効いてきます。 あれは全部、あとから直せないものを、その場で決めている作業だったのです。

会社で流す、ということ
ここからは、会社で使っていただくとしたら、という話です。
前回、私はこう書きました。「電話や会議の邪魔になるのではないか。そのとおりだと思います」と。
調べてみたら、事情は、私が思っていたのと少し違いました。
オフィスの音の世界には、サウンドマスキングという考え方があります。わざと、静かな音を流しておくというやり方です。
なぜかというと——しんと静まりかえった部屋のほうが、かえって困るからです。
- 隣の席の電話の内容まで、はっきり聞こえてしまう
- だから、自分も電話しづらい
- 誰かの咳や、椅子の音が、いちいち気になる
そこに、内容の聞き取りを少しだけ邪魔する音を、小さく流しておく。すると、隣の会話は「聞こえるけれど、何を言っているかは分からない」という状態になります。
オフィス家具のオカムラは、このしくみを製品にしていて、流す音として「小鳥のさえずり」や「せせらぎ」を選べると説明しています。ヤマハやコクヨにも、同じ考えの製品があります。
つまり——小鳥の声を会社で流すというのは、私が思いついたことではなく、すでにある使われかただったのです。
そして、その音を、私は山で録っています。
世の中にある研究のこと
小鳥の声については、研究もいくつかあります。正直に、事実だけ書きます。
イギリスのキングス・カレッジ・ロンドンの研究チームが、2022年に Scientific Reports という雑誌に発表したものがあります。1,292人に、スマートフォンで1日3回、「いま、鳥を見ましたか。鳥の声を聞きましたか」「いまの気分はどうですか」と尋ね続けた調査です。26,856件の回答が集まりました。
結果として、鳥を見た・聞いたと答えたときのほうが、気分の良さの答えが高かったと報告されています。
もう一つ。2013年の Journal of Environmental Psychology に載った研究では、人に話を聞いたところ、「気持ちが回復する自然の音」として、いちばん多く挙がったのが鳥の声だったと報告されています。ただしこの研究は、鳥の種類によっても、人によっても違うとも書いています。
ここから先は、私は書きません。
私は専門家ではありません。この音源を流したら、こういう良いことが起きます、とは言いません。 そういう研究があるという事実を、そのまま置いておくだけです。
確かなのは、ここまでです。
- 山の朝には、あの音が、確かに鳴っている
- 私は、それを足さずに、作らずに持ち帰ってきた
- 低いところだけを落としたものを、お渡しできる
それでも、私が思っていること
想像してみてください。
朝、会社に来て、席につく。部屋のどこかで、小鳥が鳴いている。
大きな音ではありません。仕事をしていれば、気づかない日もあると思います。
でもそれは、どこかのスタジオで作られた鳥の声ではありません。 岐阜のある山の、ある朝の、本当にそこにいた小鳥たちです。
前の晩から木箱がそこに置かれていて、真夜中の静寂があって、遠くの一羽が最初にささやいて、それから山じゅうが鳴きはじめた——その朝が、そのまま鳴っている。

そういうものが、誰かの仕事場で、一日中静かに鳴っている。
想像すると、やっぱり、いい気持ちになります。
まだ、用意できていません
前回と同じことを、正直に書いておきます。音源も、届けかたも、これからです。
それでも、興味を持っていただける会社の方がいらっしゃいましたら、 otoiawase@kotorinokoe.com までご連絡ください。
まだ何も決まっていません。だからこそ、ご一緒に決められることが、たくさんあります。
岐阜の山あいから、羽賀明人

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